法人理念(モットー)「明るく・正しく・潤いをもって」
創立者涌井まつは乳児を抱えた母として関東大震災(1923年)前後の混乱した社会に母子が独立した生活を
樹立することがいかに困難であるかを体験したことから、終生の使命を社会福祉事業に見出し、
1923年乳児を郷里の姉に預け、自活の途を求めて深川裏町の協調会善隣館に奉職し、民間社会奉仕家としての第一歩を踏み出しました。
善隣館の隣保事業(地域の実態に即した生活上の各種相談や社会福祉、文化・教養、保健衛生、社会教育等を行い、福祉の向上を図る)に全神経を打ち込むと共に産婆を志して勉強をし、さらに協調会の社会政策学校に通い、保母の資格を取るための独学も怠らず、産婆と保母の資格を取得。
昭和2年(1927年)に独立し、助産の家を開設し、産婆の仕事をしながら、地域の貧しい母と子どもを預かり、育てるためアルバイトも行い、自身も苦しい生活の中で「生まれる子供に罪はない。私は子どもを育てねばならぬ。」と一層の責任を感じ、地域福祉に励み、戦争の苦難を凌ぎ、戦後民生委員の委嘱をうける傍ら妊産婦の保護、乳幼児の保護育成、子を擁するが故に働くことができない女性への保護にいち早く取り組みました。
また、未亡人代表者協議会(1949年)を経て、全国組織結成のための準備を行い、全国未亡人団体協議会(現:全国母子寡婦福祉団体協議会)が結成されると初代会長に就任し、母子の生活環境を改善するため、母子福祉総合法の制定運動(5万人の請願署名を国会に提出)、母子福祉法案起草作業を行い、児童福祉関係予算の獲得運動に取り組み国会へ提出する等、国に対する働きかけや、様々な苦難を抱える母子が利用できる施策、取り組み、各種制度や手当等をまとめ、母子福祉手帳(現:母子寡婦福祉手帳)を刊行し、必要な情報が必要とする人に届くよう尽力しました。
母の日カーネーション運動も涌井まつ氏が初代会長として活動していた際にスタートさせたものです。時代の変化により業態は変化していますが、想いは現在も変わらず引き継ぎ、法人理念のもと、運営を行っております。

涌井まつ明治27年(1894)~昭和55年(1980)
社会事業家。入間郡大東村(現:埼玉県川越市)に生まれる。20代後半で乳児を抱えて夫と死別し、自活のため深川の善隣館で働く中で福祉を志して、保育や助産の資格を取得した。昭和2年、板橋(現:仲宿)において産婆を開業。そのかたわら貧困等から引き取り手のない子ども達の面倒をみた。自身も豊かとはいえない境遇でのこうした活動は周囲の胸をうった。昭和8年、慈善団体等から援助を受けて旧警察寮跡を買い取り、松葉保育園を開設する。昭和15年には宮内省から建物の下賜を受け現在地(氷川町)に移転。その後にわたり児童養護施設、保育所、母子寮、助産所なども運営した。昭和25年に結成された全国未亡人団体協議会(現:全国母子寡婦福祉団体協議会)の初代会長にも就任している。昭和27年には藍綬褒章を受章。なお昭和24年度に、板橋第九小学校の初代PTA会長をつとめた。
主な表彰
- 昭和7年(1932年)板橋町(板橋区の前身)より表彰を受ける。
- 昭和23年(1948年)全国社会事業大会にて表彰を受ける。
- 昭和24年(1949年)児童福祉大会にて厚生大臣より表彰を受ける。
- 昭和25年(1950年)東京都知事より表彰を受ける。
- 昭和27年(1952年)天皇陛下より藍綬褒章を下賜される。
- 昭和43年(1968年)天皇陛下より勲四等瑞宝章を下賜される。
主な役職
- 昭和15年(1940年)司法保護委員(現:保護司)を委嘱される。
- 昭和21年(1946年)民生委員(現:民生委員・児童委員)を委嘱される。
- 昭和24年(1949年)板橋第九小学校初代PTA会長となる。
- 昭和25年(1950年)全国未亡人団体協議会
(現:全国母子寡婦福祉団体協議会)初代会長となる。 - 昭和28年(1953年)東京都社会福祉協議会評議員を委嘱される。
沿革
History和暦 | 涌井まつ年齢 | 日本の出来事 | 板橋区出来事 | 法人の出来事 |
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明治27年 | 0歳 | 7月25日 日清戦争勃発。 | 5月11日 涌井まつ誕生 | |
明治32年 | 5歳 | 留岡幸助氏、東京・巣鴨に家庭学校(感化院)を設立。 | 7月16日 板橋町ほか8か村の組合病院として、板橋町外八ケ町村組合病院が開設(豊島病院の前身) | |
明治37年 | 10歳 | 2月8日 日露戦争勃発。 | ||
明治42年 | 15歳 | 12月16日品川~赤羽間(山手線)電化、板橋を電車が走る。 | ||
大正3年 | 20歳 | 7月28日 第1次世界大戦勃発。 | 5月21日東上鉄道が池袋~川越(田面沢)間に開通(後の東武東上線)。 | |
大正8年 | 25歳 | 12月 板橋~巣鴨間に最初のバス開通。 | 【協調会】12月22日財団法人協調会発足。会長徳川家達氏、副会長渋沢栄一氏。 | |
大正10年 | 27歳 |
11月12日ワシントン会議開催 | 【協調会】渋沢栄一氏、7月深川区猿江裏335に300坪の土地を購入。建築費4万円(約2064万円)。 | |
大正11年 | 28歳 |
| 3月 志村一里塚及び徳丸ケ原が史蹟に指定される。 | 【協調会】3月 善隣館完成。 |
大正12年 | 29歳 | 9月1日 関東大震災(M=7.9)。 | 9月20日 養育院本院が大塚から板橋に移転。 | 【協調会】3月実費診療部開設(善隣館内)。 |
昭和2年 | 33歳 | 3月昭和金融恐慌。 | 下頭橋を鉄筋コンクリート橋に改築。 | 【協調会】善隣館解散。 |
昭和4年 | 35歳 | 4月2日救護法。生活困窮者への扶助。 | 5月27日 巣鴨~下板橋間に市電(路面電車)が開通。 | |
昭和7年 | 38歳 | 1月1日救護法施行。 | 10月1日 市郡併合により板橋区誕生。区役所を現在の板橋三丁目3番~4番に開設。同日、板橋消防署も開設。 | 板橋町の有力者が涌井まつ氏の活動に対し後援会(後援会会長:澁谷常三郎氏・後の板橋区長)を組織してくれ、涌井まつ、板橋町(板橋区の前身)より表彰を受ける。 |
昭和8年 | 39歳 |
3月27日日本、国際連盟脱退を通告。 | 7月20日 新中山道が告示される。この年、荒川改修及び新河岸川開削工事完成。 | 4月 移転とともに「助産の家」から「松葉保育園」へ名称変更。 |
昭和12年 | 43歳 | 7月7日盧溝橋事件(日中戦争勃発)
| 稲荷台から縄文式土器が発掘される。 | |
昭和15年 | 46歳 | 9月27日日独伊三国同盟条約調印。 | 3月 宮内省から建物の御下賜を受け、5月移築。涌井まつ、施設の充実整備に専心努力する。 | |
昭和18年 | 49歳 | 6月1日東京市と東京府が廃止。東京都を設置。 | 7月1日より板橋区は東京都の区になる。この年、安養院の梵鐘と半鐘が重要美術品に指定される。 | 12月27日 昭和天皇陛下より御下賜金を拝受。 |
昭和19年 | 50歳 | 11月24日東京初空襲。 | 8月12日 区内国民学校児童が群馬県内に集団疎開。 | |
昭和20年 | 51歳 | 3月9日、10日東京大空襲。 | 4月13日 大空襲により区役所・板橋駅・養育院・板橋第二国民学校など地域内主要建物が焼失。 | |
昭和21年 | 52歳 |
5月4日生活保護法(旧)。 | 3月15日 板橋警察署から志村警察署が分離独立する。 | 2月18日 涌井まつ、香淳皇后陛下から拝謁を仰せつかり、様々な事情をご説明申し上げる。 |
昭和23年 | 54歳 | 7月30日 医療法公布。病院・診療所・助産所の開設、管理整備の方法等を定める法律。
| 3月1日 都内初の区立結婚相談所開所。 | 1月1日 児童福祉法に基づき、養護施設の認可を受ける。 |
昭和24年 | 55歳 |
11月3日 湯川秀樹氏、日本人として初めてノーベル賞を受賞する。 | 10月1日 区役所赤塚支所が開設。 | 5月涌井まつ、児童福祉大会にて厚生大臣より児童福祉功労者として表彰される。 |
昭和25年 | 56歳 | 5月1日精神衛生法制定。 | 4月1日 埼玉県戸田町の一部を区に編入し「舟渡3丁目」とする。 | 【全未協】3月9、10日 全国未亡人代表者会議開催。4月全国組織結成のための準備委員会発足。 |
昭和26年 | 57歳 | 3月29日社会福祉事業法(現:社会福祉法)制定。 | 4月23日 第2代公選区長に渋谷常三郎氏が当選。 | 【全未協】母子福祉総合法の制定運動開始(5万人の請願署名を国会に提出) |
昭和27年 | 58歳 | 4月28日主権回復。 | 4月1日 区の紋章制定。 | 【全未協】母子福祉法案起草作業開始。 |
昭和28年 | 59歳 | 2月1日テレビ本放送開始。 | 常盤台一帯に水道敷設される。 | 【全未協】「母子福祉資金貸付等に関する法律」改正運動着手(修学資金の無利子化、子どもの支度資金新設) |
昭和29年 | 60歳 | 7月1日自衛隊設置。 | 10月 母子相談室・区立簡易内職斡旋所上板橋分室開設。 | 【全未協】厚生省、全社協、全国未亡人団体協議会の主唱で「母子家庭を明るくする運動」展開。 |
昭和30年 | 61歳 | 神武景気。 | 3月10日 区民開館落成。区政普及映画「伸び行く板橋」完成。 | 【全未協】予算獲得運動展開。(母子住宅建設予算獲得、母子家庭の優先入居措置) |
昭和32年 | 63歳 | 7月なべ底不況。 | 5月1日 町名地番整理により、稲荷台・仲宿・氷川町・中板橋・栄町が誕生。 | 2月25日 涌井まつ、全国未亡人団体協議会(現:全国母子寡婦福祉団体協議会)会長退任。 |
昭和36年 | 67歳 |
6月12日農業基本法制定。 | 4月1日町名地番整理により、清水町・蓮沼町・大原町・宮本町・前野町一丁目が誕生。舟渡運動場が開設。 | 10月1日千葉県松ヶ谷に夏期錬成寮を設置。 |
昭和38年 | 69歳 | 1月1日テレビアニメ「鉄腕アトム」の放送開始。 | 1月5日乳児専門の区立志村坂下保育園が開園。 | |
昭和39年 | 70歳 |
7月1日母子福祉法(現:母子及び父子並びに寡婦福祉法)公布。福祉六法体制の確立。 | 1月22日区長に加部明三郎氏が就任。 | |
昭和40年 | 71歳 |
11月いざなぎ景気。 | 4月1日福祉事務所・生活館などが区に移る。これに伴い、部制施行。 | 3月31日松葉助産所廃止。 |
昭和41年 | 72歳 |
6月30日ビードルズ来日。 | 1月1日小豆沢・志村町地区で住居表示実施。 | 2月2日法人名称変更認可を受ける。「社会福祉法人松葉保育園」から「社会福祉法人松葉の園」へ。 |
昭和42年 | 73歳 | 2月11日初の建国記念日の適用。 | 4月1日区内で初めての児童館、加賀・みなみ・板橋児童館開設。 | 4月29日 涌井まつ叙勲。勲四等瑞宝章を授与される。 |
昭和49年 | 80歳 |
5月15日セブンイレブン日本第1号店開店。 | 4月16日社会教育会館開館。 | 4月29日 昭和天皇陛下より御下賜金を拝受する。 |
昭和55年 | 86歳 | 3月1日授産場、区へ移管。加賀福祉園設置。 | 11月3日創立者 涌井まつ死去。 | |
昭和58年 |
4月15日東京ディズニーランド開園。 | 12月9日石神井川緑道完成。 | 7月2日 開園50周年式典挙行。 | |
平成2年 |
| 3月30日小豆沢公園野球場が人工芝でオープン。 | 3月1日養護施設まつば園第一分園開設。 | |
平成4年 | 3月14日東海道新幹線の「のぞみ」が運転開始。 | 3月25日植村記念財団設立。 | 6月1日養護施設まつば園第二分園開設。 | |
平成7年 | 1月17日阪神・淡路大震災。 | 3月30日仲町ふれあいセンター落成式。 | 5月13日新園舎落成竣工記念式典挙行。 | |
平成8年 | 6月1日板橋区子ども家庭在宅サービス事業(現:子育て支援サービス)開始。受託。 | |||
平成10年 | 3月25日特定非営利活動促進法公布。 | 2月1日子どもたちの緊急避難所「ピーポ110番」事業がスタート。 | 4月1日児童福祉法改正により児童養護施設まつば園となる。 | |
平成16年 |
12月10日発達障害者支援法公布。 | 8月30日グリーンホール落成。 | 6月1日児童養護施設まつば園第三分園開設。 | |
平成18年 |
| 6月12日赤ちゃんの駅がスタート。 | 4月1日児童養護施設まつば園第四分園開設。 | |
平成19年 |
| 4月27日坂本健氏、区長に就任。 | 4月1日板橋区より板橋第二学童クラブ(現:板橋第二小あいキッズ)の運営を受託。 | |
平成21年 | 3月1日小豆沢体育館がリニューアルオープン。 | 11月1日 児童養護施設まつば園第五分園開設。 | ||
平成22年 | 4月1日子ども手当制度施行。
| 4月1日板橋区より板橋第九小あいキッズの運営を受託。 | ||
平成23年 | 3月11日東日本大震災。 | 8月27日高島平温水プールがリニューアルオープン。 | 4月1日板橋区より待機児童対策氷川町保育ルーム(現:氷川町小規模保育園)を受託。 | |
平成24年 | 6月27日子ども・被災者支援法施行。 | 7月19日板橋区オフィシャルロゴを制定。 | 4月1日板橋区より志村第三小あいキッズの運営を受託。 | |
平成25年 |
5月22日日本が国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約(ハーグ条約)を批准。 | 4月1日板橋区より弥生小あいキッズの運営を受託。 | ||
平成26年 |
| 11月7日区役所新庁舎の落成式を開催。 | 4月1日志村さかした保育園開設。 | |
平成29年 | 4月1日改正社会福祉法施行。 | 7月19日板橋区観光大使に杉浦太陽氏を任命。 | ||
平成30年 | 3月28日板橋区観光大使にいっこく堂氏を任命。 | 2月11日創設90周年記念式典挙行。 | ||
令和4年 | 4月1日板橋区子ども家庭総合支援センター(児童相談所)を開設。 | 5月1日児童養護施設まつば園、第六分園、第七分園を開設。 |